平成31年3月28日のカンテレの「砂の器」は極めて残念な作品だ。松本清張は草葉の陰で泣いているに違いない。
天才音楽家が恩人への殺人を断行せざるを得なかった理由が、今回のカンテレの
①兄の連続幼女殺人と②心労による母親の死亡と③父親の防衛の動機による傷害致死事件
では、視聴者は納得できない。
確かに気の毒ではあるが、天才音楽家であれば戸籍を偽らなくても音楽的成功を収めることはさほど困難とは思えない。殺人は、和賀英良こと本浦秀夫の単なる身勝手だということになってしまうのだ。
かつて、らい病患者(ハンセン病感染者)に対する仕打ちは想像を絶するものがあった。
法律による社会からの完全隔離、国家権力による強制不妊手術などの人間性の否定。
その家族にまでも、人としての生き様を容易に認めない状況だったのだ。
たとえ、音楽の天才であっても、社会へのスタートラインに立つことさえが容易ではなかったのである。
そういう前提があって初めて、和賀英良こと本浦秀夫が恩人である三木謙一に対して行った不条理な殺害が簡単には非難できないものとなるのである。
1974年、松竹株式会社製作の丹波哲郎主演の 「砂の器」はそのあたりを本当によく描けている。
最後に、和賀英良こと本浦秀夫の逮捕に臨む際の、今西警部補の表情を見ると明らかに分かる。
カンテレの「砂の器」の東山紀之扮する今西警部補は単なる身勝手な犯罪者を逮捕するという正義感にあふれているが、
1974年、松竹株式会社製作「砂の器」の丹波哲郎の今西警部補は和賀英良こと本浦秀夫の過酷な運命を思いやって苦渋の表情をしている。いずれが松本清張の真意を表しているかは明瞭だ。
また、ミステリーとしても今回の作品は残念なものである。最初から犯人を明らかにしているのではミステリーではない。視聴者がすでに犯人を知っているという前提であろうが、これでは、犯人と愛人との恋愛劇にしか過ぎない。ただ、恋愛劇としては、それなりに良かったと思うが、原作とは別物である。
今回の脚本は、そうしなければハンセン病患者の関係団体からの、「差別を助長する」とのクレームを避けられないと考えたからだと思う。
確かに、劇場映画と違って茶の間に映像を提供するTVでは、限界があるかも知れないが、1974年、松竹株式会社製作の丹波哲郎主演の 「砂の器」は決して差別助長でないことは明らかに見て取れるものだ。
それでは、今回どうすればよかったかであるが、天才音楽家であれば戸籍を偽らなくても音楽的成功を収めることはさほど困難とは思えない。
そうである以上、犯人和賀英良こと本浦秀夫を天才とするのではなく、努力して努力してやっとここまで来たということにして、
楽譜を山のように書き直したり、他のライバルに対してやっとやっとで勝ち抜いたということにすれば、恩人である三木謙一に対して行った不条理な殺害が納得できたのではないかと思う。
今回のドラマのままでは、「砂の器」がただの凡作になってしまうと危惧するばかりである。
「砂の器」がただの凡作ではないことを証明するために、カンテレは、1974年、松竹株式会社製作の丹波哲郎主演の 「砂の器」を放送するべきだと強く思う。