内閣改造の直前にもかかわらず、稲田防衛大臣が辞任しました。
遅きに失したと言われておりますが、であるなら、あと5日くらい更に遅くなっても良いじゃないかと思うのですが、周りの圧力は大変なものだったのでしょう。
稲田大臣が日報の存在を知らされたときに、その場にいた面々の反対を押し切って公表すべきだという力は、稲田大臣にあったのでしょうか。
防衛大臣という立場はあっても、実際の決定権はなかったのではないでしょうか。
そうであれば、出来なかったにもかかわらず、しなかったことの責任を負わされるという極めて気の毒な状況です。
肩書きをつけただけで政治が出来るわけではないということです。
森友学園の問題の際にも、同学園と弁護士としての自らとの関わりについて、客観的事実と異なる発言をして、何度も訂正をしていました。
裁判の場では証人は記憶のとおりに証言すれば、その内容が客観的事実と違っていてもそれで良く、偽証罪にはなりません。
国会という場で、大臣が発言をするのに「記憶のとおりに供述したのだ」と言って、間違いが済むはずはありません。
調査の上で、客観的に真実に合致した発言をしなければならなかったはずです。
結局は、力不足だったということになるのでしょう。