2016年01月

 「4つのテスト」の考案者は、倒産の危機に瀕した会社の再建のために、

職員の人格、信頼性、奉仕意識に頼ることを決心して「正義は力なり」と信じ、正義を守ろうと決心したということです。

 曰く、『もし諸君がこの「4つのテスト」を他人との全ての関係に毎日8時間の営業中に欠かさず適用すれば、

必ずや、家庭においても、また会社生活においてもそうならざるを得なくなる習性が身につくということをわれわれは既に経験している。

かくして諸君は、より良き父となり、よりよき友となり、より良き市民となることであろう(ロータリーの友より)』。ということです。


 「4つのテスト」は決して、商売上のお金儲けのためのノウハウだけではありません。

  きっかけは会社再建であっても、大切なのは正義の実践で有り、その実践が身につくことによって立派な人間になれるということです。

  「4つのテスト」は優れた人生訓なのです。

癌を告知するか?

  以前は、癌の告知をしないことが通常のようでした。それは、癌の告知は「あなた死にますよ」という将来の否定だったからです。

  「4つのテスト」は、一人称の私と、二人称であるあなた、三人称である彼彼女(社会)との将来の良き関係を目標とするものですから、

将来の否定となる癌の告知は、例外として、否定されたのです。

最近は、余命1年或いは半年という短い期間にも将来ということが考えられるようになり、

その短い期間を全うするために、癌の告知が通常となったのです。

醜い女性に醜いと告げるか?

 「私きれい?」と聞かれたとして、そこで、何を聞かれているのか、質問の意味によるのです。聞かれもしないのに告げるのは、ただの嫌みです。

  「私きれい?」と聞かれたときに、ミスユニバースに応募を考えているというのであれば、「多分難しいんじゃあないかな」と答えるでしょう。

女子アナやアイドルを目指しているのであれば、「メイクの仕方について」や「女性の魅力とは…」を答えることになるのでしょう。

 俳優(男性・女性とも)になれば、ドラマの中では、どのような容貌の人でも美男美女の役を演じることに全く問題ありません。

 プライベートの場面で、奥さんや恋人から、「私きれい?」と聞かれた場合、質問の意味は、単なる容貌を聞いているのではなく、「私のことを愛してる?」という意味なのです。

その場合には、迷わずに、「君が世界中で1番きれいだよ(愛してるよ)」というのが真実の答えなのです。

 「さあ、どうかな」などと答えるようなら、そろそろ離婚や関係解消の時かもしれません。

③好意と友情を深めるか?
  英文では未来形になっています。

  私(1人称)とあなた(2人称)との間で、「将来的には、良い意識・感情を抱き、お互いの絆(きずな)をよりふかめることを目標としましょう。」

  真実は大切ですが、真実を言うとしても言いようというものがあるわけです。

  日本人は、伝統的にこれは得意です。「真実」や「フェア」でなくても、絆(きずな)を深めることは得意だったように思います。

 農耕民族ですから、限られたパイを奪い合う必要がなかったからかもしれません。

 私らは仕事柄、「言い方がきつい」とよく言われます。相手を尊重すれば、優しい表現が必要なことも少なくありません。

  伝統的に、「フェアであれは相手を殺しても良い」という考えであっても、できれば共存共栄がより良いのでしょう。

 だから、意識して「将来的には、良い意識・感情を抱き、お互いの絆(きずな)をよりふかめることを目標としましょう。」という訳です。

④みんなのためになるかどうか?
  これも、英文では未来形になっています。

 私(1人称)とあなた(2人称)以外の、彼・彼女(3人称)に対しても有益になることを目標としましょう。

 要するに、「世のため人のため」になることを目標にしましょう、ということです

 4つのテストとは、

①私と貴方の現在の関係
②私と貴方以外との現在の関係
③私と貴方との将来の関係
④私と貴方以外との将来の関係

の「あるべき姿」を述べたものなのです。

だから3つでもなければ5つでもなく、4つのテストということになるのです。







  近年、価値観の相違は全く調整不能のようにも思えます。国外は勿論、国内にいても、多くの人々が異なる言い分を主張して、収拾がつかないように感じます。

  「4つのテスト」という考え方があります。異なる価値観の調整手段になると思います。

①真実かどうか?

 私(1人称)とあなた(2人称)との間のメッセージに嘘はいけません。当然なのですが、我が国においては、当然でもなかったのです。

 「嘘も方便」という考えです。むしろこちらの方が主力かもしれません。嘘をつくと言うことは、話し合って解決するということを拒否するもので、暴力によって言論を停止させるのと同じなのです。

ただ、閉鎖社会で構成メンバーの入れ替えがほとんどなく、長いスパンにおいて損得勘定が清算されれば、1回ごとに清算するより面倒でなく、逆にギスギスしなくて良いという面があります。

領収書を全部残しておいて清算するより、経費を固定しておいてこの範囲で経費を使うようにという方が簡便です。

  しかし、「嘘も方便」という考えは、1回限りの人間関係では使えません。不公平になるし、その前提となるコンセンサスが成り立たないからです。文化や価値観の異なる人々との人間関係においては、「嘘をつかない」ということでなければ、成り立ちません。

②みんなに公平(フェア)か?

 彼・彼女(3人称)に対してもフェアでなければいけません。「ずる」をしてはいけないと言うことです。

「越後屋おぬしも悪じゃのう」「お代官様こそ」という場面は、かって時代劇で定番でした。日本の社会においては、今でも非常にしばしば見られる、「あるある話」なのです。

そして、始末が悪いのは、自分の特別な利益を擁護するのではなく、ある場面でAさんがBさんの利益を擁護し、別の場面でBさんがAさんの利益を擁護し、その結果、他の彼・彼女の利益を犠牲にすることです。

AさんもBさんも「ずる」をしているという意識がないことも少なくありません。日本の任意団体ではこのようなことのないところを探す方が難しいように感じます。

  外国の方々にはとても理解されないでしよう。アンフェアをことに忌み嫌うアメリカ人とは、我々は全く感覚が違います。

西部劇で、悪役のガンマンが善良な素人を挑発して、先に拳銃に手をかけさせた上で射殺して、正当防衛だという典型的な場面があります。

今は、表面的にはそんなことはないでしょうが、「フェアであれば相手を殺してもいい」というほどのこだわりです。

やがて皇紀2700年になろうという単一国家の日本と、移民国家のアメリカとの違いなのでしょう。

「真珠湾攻撃」に対するアメリカ人の反発は、単に当事者であることによる大げさな弁解というだけでないと思われます。

 文化や価値観の異なる人々との人間関係においては、、「ずる」は禁物です。

↑このページのトップヘ